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もう「コンプレックス産業」は古い。これからのサロン経営を成功させる「自己充足型」美容とは?

世間の基準に疲れた人が、最後にたどり着く場所

最近、ネットの記事をなんとなく眺めていると、なんだか胸のあたりが妙に息苦しくなることが多い。

海外のニュースサイトであるCNNのページを開いたとき、たまま「Why Women feel pressured to shave(なぜ女性は毛を剃らなければいけないというプレッシャーを感じるのか)」という、脱毛をテーマにした真面目な特集記事を見かけた。そのメディアもようやくルッキズムの批判に本腰を入れ始めたのか、と一瞬だけ思いそうになったのだけれど、現実はそんなに単純なものではなかった。その批判記事のすぐ目と鼻の先、同じ画面の横側では、ルッキズムをこれでもかと助長するような画像や文書が平気で垂れ流されていたからだ。

こうした、至る所でルッキズムへの批判が急激に増加している一方で、同時にそれを煽るような表現が溢れかえっているという、一見すると奇妙で矛盾した状況が今の社会にはごく普通に混在している。

街中のデパートに足を運んでも、空港のロビーを歩いても、テレビのスイッチを入れても、ネット上を眺めていても、そこにあるのは女性の「魅力」をいかにアピールするかというメッセージばかりだ。とりわけ香水をはじめとする化粧品、あるいはきらびやかなアクセサリーなどで身を飾った女性たちのイメージが、これでもかと洪水のように押し寄せてくる。

しかも、これらの広告のタチが悪いところは、それが世間からの押し付けではなく、「女性自身がみずからそれを望んで、楽しんでそう振る舞っている」かのように巧妙に演出されている点にある。だからこそ、私たちは無意識のうちに、外見重視の強力なプレッシャーから少しも後退できないまま生きることを強いられてしまう。世間が勝手に作り上げた「美しさのチェックリスト」が目に見えない岩盤のように社会を覆っていて、そこから少しでも脱落することは許されないかのような、無言の圧力が常に漂っているのだ。

私は、こういう「外見重視のプレッシャー」で人間の価値を値踏みし、不安をコントロールして動かそうとする古いやり方は、そろそろ限界にきているんじゃないかと思っている。人間、そんなに四六時中「見られる存在」として完璧であることを求められ、監視され続けていたら、どんなにタフな人だって心が持たない。みんな、世間の物差しに合わせて自分をアップデートし続けるレースに、本当はもう疲れ切っているんじゃないだろうか。


完璧を求められる「戦いの鎧」

少し前に、社会学の専門的な論文(※1)をめくる機会があったのだけれど、そこにすごく興味深い言葉が載っていた。「パワードレッシング」という概念だ。 これは、決して過去の古い死語などではなく、今なお私たちの状況を1センチも前に進めさせないまま縛り続けている、根深い問題のことである。

パワードレッシングとは、社会の中でキャリアを築き、自らの力で生きていこうとする女性たちが、職場においてまともに扱われたり、正当な権威や尊敬、あるいは権力を手に入れたりするために直面せざるを得ない、衣服と身体に関わるある種の「技法」のことを指している。

これは、ただ単に「センスよくお洒落をして、綺麗にしていれば仕事がうまくいく」というような、お気楽で単純な話では決してない。女性が職場で男性の同僚たちと対等に渡り合うためには、彼ら以上に自らの服装に神経を尖らせ、外見を厳密に管理しなければならないという、不条理な現実が根底にある。

具体的に言えば、女性は社会の中で、ただ生きているだけで「エロチックなもの」として見なされたり、あるいは記号的な「物」のように扱われたりするリスク(客体化される罠)に常に晒されている。パワードレッシングとは、そうした客体化される問題をうまく処理してかわしながら、同時に「女らしさ」という社会的な要求もきっちりと主張しなければならないという、極めて複雑で矛盾に満ちた身体管理の手続きなのだ。

論文の著者は、この「身体とセクシュアリティとの結びつきを必死に解体しようと試みながら、同時に別の形でそれを再生産してしまう」というジレンマを、衣服をめぐる「ほとんど不可能に近い挑戦」と表現していた。

要するに、現代を生きる働く女性たちにとって、外見を整えたり美容に投資したりする行為は、純粋な「自分のための楽しさ」や「純粋なときめき」では半分なくなってしまっている。それは、社会という理不尽な男社会の枠組みの中でまともにサバイブし、他人に舐められたりモノ扱いされたりしないための「戦いの鎧(よろい)」を必死にメンテナンスする、義務としての身体管理作業に近い。毎日毎日、24時間体制で自分の身体を監視し、管理させられ続けるような衣服や身体の複雑な関係の中に置かれていたら、誰だって深く消耗してしまうのは当然だと思う。


「マイナスをゼロにする美容」から「自分を満たす美容」へ

もし、あなたがこれから自分の美容サロンを開業したいと考えていたり、あるいは広く美容に関わるビジネスで生きていきたいと思っているなら、この現代人が抱える「外見重視のプレッシャーに潜む、ある種の暴力性」に自覚的であるかどうかが、ものすごく大きな分岐点になると思う。ここを見誤ってしまうと、どんなに技術を磨いても、誰の心にも残らないサロンになってしまう。

そもそも、私たち人間社会の歴史を振り返ってみると、人間は「分類し、選択する」という行為を、生存のための不可避の条件としてずっと続けてきた。他者が存在しなければ自己の存在も確立できない以上、人間を範疇(はんちゅう)ごとに分類することは、ある意味で人間社会の宿命的な条件なのかもしれない。

しかし、問題はその先にある。そうした分類行為が、人間社会の内部においては、ほぼ不可避的に主体と客体の上下関係、つまり「支配・被支配の関係」や「甲乙をつけた縦の多様性(ランク付け)」に組み替えられてしまうという点だ。

これまでの古い美容業界がやってきたのは、まさにこの「縦の多様性」の物差しにお客様を乗せ、欠点ごとに人間を分類し、世間の基準に届いていない部分を「マイナスからゼロにする」ビジネスだった。誰かが決めた価値判断の物差しに照らし合わせて、「ここが足りないから綺麗にしましょう」「世間の標準に届いていないから修正しましょう」と、選択と排除を迫るアプローチだ。

しかし、そうやって他者評価のために自らをランク付けし、必死に世間の物差しに自分を合わせようとする美容は、どこまでいっても終わりがない。一つクリアしたところで、消費を煽るために作られた「正解」の基準は次々に形を変えていくのだから、どこまでいっても救われないし、ぶっちゃけしんどい。

これからの時代に本当に求められ、そして結果的に広告費をかけなくても長く愛され続けるのは、そうした世間の息苦しい二項対立的な基準や分類の暴力から、お客様をそっと解放してあげるサロンだと思う。他人の目を気にして「縦の物差し」の正解を取りにいくための美容ではなく、その人がその日一日を機嫌よく, 自分の身体を愛おしく思って生きるための美容。私はそれを、他者評価のための美容ではなく「自己充足型の美容」と呼びたい。


ジャッジされない空間を作るということ

あなたがこれから作るサロンが、お客様にとって「社会の枠組みや、他人の冷たい目線、支配的な分類から、一瞬だけ逃れられるシェルター」のような場所になったら、どうなるだろう。そうなれば、それはもう近所のライバル店との技術競争とか、不毛な価格の叩き合いなんていう低い次元の争いからは、完全にワープした別次元の価値を持つことになる。

サロンのドアをカチャリと開けて、施術のベッドに横たわっている間だけは、世界中の誰からもランク付けされない。世間の「綺麗の基準」でジャッジされないし、点数もつけられない、誰の客体にもならない時間だ。ただただ、日々戦ってこわばってしまった自分の身体が心地よくほぐされて、いたわられて、「あぁ、自分の身体もそんなに悪くないな」と、自分自身を少しだけ好きになって帰っていく。そんな、家でも職場でもない、本当の意味でのサードプレイス(第3の場所)としてのサロンだ。

「ここがダメだから直しましょう」とコンプレックスを煽って集客する古いやり方をきっぱりと捨てて、「あなたが、あなたらしく息をするための空間」というコンセプトを静かに掲げる。それだけで、世間のノイズに疲れ果てて、どこにも行き場がなかった本質的なお客様が、砂漠で水を見つけたような気持ちで、自然とあなたのサロンに集まってくるようになる。

誰かのシェルターになる、その「座標」を決める

どれだけ深いコンセプトを思いついても、それが現実の風景として立ち上がらなければ、誰にも届かない。 世間のノイズを遮断して、お客様がホッと息をつけるシェルターを作るには、その「場所」の空気が何より重要になってくる。

表通りの喧騒から少し隠れた路地裏の静けさ。 夕暮れどきに、あたたかい光がやわらかく差し込む窓。 古い階段を上った先にある、どこか懐かしいプライベートな一室。

あなたの頭の中に浮かんでいるイメージに、ぴったりの手触りを持った場所を見つけること。それが開業の、本当の始まりだと思う。

私のいる不動産会社では、そういう少し偏った、でも強いこだわりを持つ人のための事業用物件を専門に集めている。最近は特に、こういう新しい時代の空気感に寄り添えるサロン向け物件のラインナップに力を入れている。

誰かの心をほどくための特別な拠点をどこに構えるか。 まずは私たちのポータルサイトで、その理想の座標を探すところから始めてみてほしい。

誰かのためのシェルターを探す

(※1)
引用元:『日本服飾学会誌』第二十二巻第二号 特別寄稿 北山晴一「分類することの暴力について ~ルッキズムを支えてきたもの」